I REMEMBER

ぼくは覚えている (エクス・リブリス)

ぼくは覚えている (エクス・リブリス)

1950年代のアメリカ中西部オクラホマ州タルサでの少年時代と、当時のポップ・カルチャーにまつわる有名芸能人や商品名をめぐるさまざまな記憶が、「ぼくは覚えている」で始まる文で次々と書き綴られる。一見とりとめなくランダムに、気まぐれに、しかも徹底的にモノの細部にこだわった表現からたちのぼるのは、人生そのものの多様さだ。その詳細で無尽蔵な記憶は驚嘆を禁じえないが、「何かしら自分ではない別のものの力によって書かされた気がする。一つの記憶から奔流のごとく別の様々な記憶が湧き出てくるようだった」と作家自身が言うように、連想が連想を呼び、純粋に楽しみながら書いたことが伝わってくる。ブレイナードの記憶に触発されて、読者はそれぞれの記憶を呼び戻し、みずみずしさを感じることだろう。

「ぼくは覚えている。○○のことを」という一文が、最初から最後まで、ずっと繰り返される。しかし、その断片が徐々に積み重なり、有機的に結びついたとき、物語の全体像が見えてくる……なんてことは一切なし。


文学と言われれば文学だけど、これは小説ではないよなぁ。


ただ、このリズムは非常に癖になる。
覚えている(と称する)事実がホントに羅列されているだけだし、本人にしかわからない連想、少年時代の品物やポップ・カルチャーの記憶は、事細かに説明されても日本人にはピンと来ないものも多い。
でも、短い「ぼくは覚えている。○○のことを」のフレーズに、その前後のドラマが見えてくるんだよね。例えば「ぼくは覚えている。ゴミ捨てのことを」って、なにそれ、という感じなんだけど、なぜだか、彼がどんな格好なのか、はたまたゴミの量は? とかそういうことに思いが馳せる。
読み続けると、断片的な語りが、集めきれない個人史のピースの塊に見え、気づけば、自分の「覚えている」ことが重ね合わさってくる。


アメリカでは「I remember」という作文手法が生み出されたとのことだけど、たしかにこれは書きたくなるよ。


「ぼくは覚えている。初めて買った『ネクロスの要塞』がマージとサムライでガッカリしたことを」