WARM BODIES

ウォーム・ボディーズ―ゾンビRの物語 (小学館文庫)

ウォーム・ボディーズ―ゾンビRの物語 (小学館文庫)

ぼくはゾンビ、名前は「R」がついていたことくらいしか覚えていない。仲間とともに郊外の廃空港に住みつき人を襲っては食べて暮らしている。ぼくはある日、若い男の脳を食べた。脳はゾンビたちの大好物。脳を食べると相手の記憶が乗り移る。その日、食べたのはジュリーという美しい恋人を持つ青年の脳だった。ぼくこと「R」はゾンビでありながら、記憶のなかの彼女だけでなく、実在のジュリーにも強く惹かれていく……。『トワイライト』シリーズの著者ステファニー・メイヤーも大絶賛した究極の愛を描いた話題作。 ゾンビ版の『ロミオとジュリエット』日本上陸。

相変わらず、アメリカはゾンビジャンルが大好き。
「意識を保ったゾンビ」は比較的最近の潮流で、訳されたものでも『ゾンビの作法』*1や『ぼくのゾンビ・ライフ』*2、「100パーセント・ビーフのパティをダブルで」*3などがある。
個人的には、ゾンビが意識を保っていてもOKなんだけど、それは一人称小説になりがちなんだよね。ゾンビに内面を語らせれば語らせるほど、そんな思考力残ってるの? とゾンビに見えなくなってくるという矛盾。
それを感じさせないのが筆力とアイデアだと思うんだけど、この作品は初めの方から雄弁で、ゾンビである必要性があまり感じられず、違和感が非常に強い。文化圏の違う敵性国家、という設定に変えても問題ないと思う。この作者、ゾンビ興味ないのかな?


恋愛ものなんで、徐々に人間らしくなっていくのはお約束だし、それが「愛の力!」でもいいんだけど、とにかく最初から生者的思考だから、一人称の効果に反映されていない。『アルジャーノン』方式のほうが良かったんじゃないかなぁ。


また、ゾンビが文化を築いていても構わないんですが、それは意識を持った行動なのか、単なる生前の反射にすぎないのか、客観的にわからないからこそ、ゾンビの不気味さと哀れさが浮き彫りにされると思うんだよね。それを一人称で解説されちゃうと「う〜」とこちらが唸ってしまう(笑)


何度も繰り返したけど、「○○という設定はいいんだけど……」の後に続く肉付けが極めて貧弱。言い方変えれば、説得力、整合性、ゾンビものとしてのレゾンデートルがない。
終盤で、ゾンビアポカリプトものではなく、実はファンタジーということがわかるんだけど、それにしても、色々と納得行かないこと多すぎ。


ゾンビは基本ヴィジュアル先行のジャンルだから、視覚情報を剥ぎとって、なおかつ面白い作品を仕上げるというのは難しい(例外は少ない)。その新たなアプローチとしてゾンビ一人称はありなんだろうけど、この作品は成功しているとは言いがたい。ガジェット先行のネオ・スチームパンクに食感が近いかも。
同じゾンビ恋愛もので『ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春』*4があるけど、こちらは観ている間はそこまで気にならなかったから、やはりヴィジュアルの力なんだろうなぁ。


ゾンビ一人称の傑作は『バイオハザード*5の「かゆい うま」じゃない?