The Suspicions of Mr. Whicher: or the Murder at Road Hill House

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件

1860年ヴィクトリア朝時代の英国。6月のある朝、のどかな村にたたずむ屋敷の敷地で、当主の3歳の息子が惨殺死体となって発見された。
殺された子どもは施錠された屋敷内にいたはずだった。犯人は家族か、使用人か? 世間が注目するなか、捜査にあたったのはジョナサン・ウィッチャー警部。1842年にスコットランド・ヤード刑事課が創設された際に最初に刑事になった8人のうちのひとりで、ずばぬけた技量を持つ敏腕刑事である。
優れた推理力をはたらかせ、事件の謎に迫るウィッチャー。しかし、非協力的な遺族や、プライバシー神聖視の風潮、加熱する報道、さらには刑事への偏見もあいまって、事件は数奇な道すじをたどる――
ヴィクトリア朝英国を揺るがし、後に数々の探偵小説が生まれるもととなった幼児殺害事件の驚くべき真相とは。当時の特異な世相をも迫真の筆致で描き出す圧巻のノンフィクション。

幼児殺害、カントリーハウス、継母との不和、非協力的な遺族、敏腕刑事と地元警察との軋轢、加熱する報道……とコテコテに古典ミステリのお約束が詰め込まれているけど、立派にノンフィクション。
日本では知られていないけど、イギリスでは「切り裂きジャック」並に、国内を肝胆寒からしめると同時に、人々を熱狂させた事件。
また、ウィッチャー警部は当時の小説に出てくる多くの探偵のモデルになっているとか。このウィッチャー警部と切り裂きジャックの対決が見たいと思ったけど、ホワイトチャペルが舞台になるのはまだ30年近く先。


21世紀となった今では事件録ではなく、事件のディティールや当時の風俗を細かに挟んだ実録風フィクションとして読める。しかし、それは当時も同じことで、彼らが認識していたかは別として、完全にショー化していた。
家庭内のプライバシーは何よりも守らなければならないという意識の強いイギリスにあって、敏腕刑事を主人公として上流階級の屋敷に土足で踏み込むことに興奮する人々。報道も国民も、刑事の行為を批判しながら、憶測だけで推理し、被害者一家のありもしないスキャンダルに騒ぎ立てる。さらに、加害者に同情が集まる展開など、この構図は、今も全く変わってないんだよね。
フロム・ヘル*1でジャックが、自身が20世紀文化の扉を開くと幻視するけど、この事件もまた、20世紀ポップカルチャーの雛形となった現象であることがわかる。


また、『フロム・ヘル』は数々の投書も事実の一部として構築された物語だけど、こちらの事件でも素人探偵からの無数の投書はあったそうだ。当時の様子もいろいろと描写されているので、ヴィクトリア朝ものの副読本として目を通すのもいいかもしれない。死者の網膜には犯人の顔が写っているはず、など、スチームパンクのネタになりそうなガジェットがリアルに語られたりもするのも、不謹慎ながら楽しめる。


全国民の無責任な意見と目に晒されたため、優秀な刑事は失脚し、被害者家族は引越しを余儀なくされる、という誰も幸福にならない顛末を迎える。
しかし、物語自体は、ひじょうにドラマチックな結末。これがある種、救いになってるかなぁ。